<5日目、2000年6月5日> 美深→音威子府・シェル石油輸送所跡・山村都市交流センター

音威子府 北海道の旅 2000年
美深から音威子府へ
美深から音威子府へ

 8時起床。晴れ。さすがに道北はまだ寒い。昨晩は吐く息が白く見えた程だ。ハエ、蚊は多かったが風もなく、たいへん過ごしやすい夜であった。周りを見回すとオートキャンプ場なので車で乗り入れたキャンパーが4組ほど見えた。掲示によるとテント一張り大人200円らしいが管理人が徴収に来るわけでも無さそうなのでさっさと荷物をまとめて移動の準備を整えた。

 ここでも他のキャンパーと挨拶を交わし世間話をする。2人連れのキャンパーだったが共に関東から車で移動しているとのこと。温泉の話題や、道内の食事の話題で話ははずんだ。首から下げたデジタルカメラに気が付いたので、Webページを作成しながら旅を続けていることを説明する。Webページに興味があり是非見たいと言ってくれたので、Webページのアドレスが入った名刺を渡した。こうやってWebページを見てくれる人が増えると作成の苦労も報われるというものだ。

 本日の移動はJR紋穂内から5駅北上した「JR音威子府(おといねっぷ)」までだ。音威子府村は小学1年生から4年生まで住んでいたことのある懐かしい場所だ。当時から人口1,700人程度の小さな村であった。現在の状況もそれほど変化は無いだろう。昔の記憶をたどりながら2日にわたって村中を見てまわる予定である。

 用意した「道内時刻表」で列車の発車時刻を調べ、それに合わせ1時間ほど前にキャンプ場を発つ。駅に向かい国道を歩いていると一台の乗用車が隣に止まった。ドライバーは外国人女性であった。てっきり道を聞かれるのかと思い話をよく聞いてみると(もちろん英語で)「向かっている方向が同じなので隣に乗りませんか」と親切に同乗を勧めてくれていたのだった。自分はJRの駅に向かって昨日来た道を南下しているので本当に行きたい方向は逆である。もう駅は近いし、方向も逆だということをカタコトの英語とジェスチャーでやっとの思いで伝える。記念すべきヒッチハイク第一回目は外国人女性になるところであった。

 駅で1時間ほど時間をつぶす。外を見るとまた雨が降り出した様だ。雨の中でのテント設営を想像しながら外を眺める。だが、雨は30分程度で止み空には青空が戻った。どうやら通り雨だったようだ。旭川の印象が強くどうも雨の野宿は想像しただけで憂鬱になる。

 この駅はよく見ると台車を改造したものらしい。列車特有の窓とアーチ型の屋根がその面影を残している。駅内には簡素な手書きの時刻表と切符の値段表、旅のノートが設置されている。北海道のローカル駅らしい風景だ。

「JR音威子府(おといねっぷ)」に向かう列車が到着する

 13時18分紋穂内発。約30分で音威子府駅に到着する。17年ぶりに音威子府村の地に立つ。駅を降りると、さっそく懐かしい景色が目の前に広がった。小さな村なので主要な建物はほとんど駅前の通りに並んでいる。まずは記憶に残っている商店に入ってみた。ここの娘さんは自分の妹と同級生だったはずた。小さな商店は大きなスーパーに模様替えしていた。レジのおばさんに17年前に住んでいたことを話してみると、意外なことにはっきりと覚えていてくれた。17年前小学4年生だった自分と2年生だった妹のこと、両親のことなど、ぽんぽんと懐かしい話が出てくる。また、同級生の一人が村役場に勤めていることも聞く事ができ、意外なところで道は開けていった。

木工品は音威子府の特産品の一つだ
駅舎も新しく立て替えられたらしい
駅前通り
昔の商店はスーパーに様変わりしていた

 スーパーを出てデジタルカメラに建物や景色を納めていく。通学していた小学校もすぐに見つかる。残念ながら立て替えられたようで昔の面影は無い。職員室に残っていた方に事情を説明し校内を案内してもらった。昔は百数十人いた生徒は現在半分の60人程度になってしまったそうだ。原因はJRのローカル線廃止によって村の人口が1,700から1,200人ほどに減ってしまったためらしい。

 案内のお礼をし、さっそく村役場の同級生を訪ねに向かう。村役場は比較的新しい外観をしている。たぶん自分が引っ越した後に建てられたものだろう。ロビーで待っていると同級生がやってきた。最初はきょとんとしていたが事情を話すと彼も自分の事を覚えていてくれ、懐かしい再会を果たすことができた。彼とは2時間ほど話して、夜に飲みにいく約束をし一旦別れた。明るいうちに今日の野宿予定地である村内の「中島公園キャンプ場」を下見に行く。10分ほどでキャンプ場に着きすぐにテント設営可能な場所を見つけることが出来た。

ローカル線廃止によって無くなった駅の記念品(駅内に展示してある)
小学校内を案内してもらう

 待ち合わせ場所の駅の待合い室に戻るが、いてもたってもいられずに旧家の方向に向かってみる。当時自分の父は石油輸送所の所長をして、記憶では旧家もその近くにあるはずだった。役場の同級生の話では石油輸送所は既に無く、「山村都市交流センター」になっているという。10分程でセンターにたどり着き、付近にいたおばさんに旧家の事を聞いてみる。

 驚いたことに、このおばさんも家族全員のことを覚えていてくれた。奥からおじさんも出てきてくれ非常に懐かしがってくれた。話によると旧家は今、別の家族が入っているらしい。その名前を聞いたので大学ノートにメモし、端の家から一件一件表札を覗いてみる。近くに小学生の子供がいたのでその名前の家がどこにあるのか聞いてみた。子供は自分がその家の子だと言う。付いていくと懐かしい旧家が目に入った。自分が大きくなったせいか多少小さく見える。20時近くなり、時間ももう遅いので明日再度訪れることにし、駅の方向に向かった。連れてきてもらった子供は大きなバックパックに興味があるようで付いてきて、いろいろと質問をしてくる。飛行機で横浜から北海道に来て列車で道内をまわっている事や、公園に野宿すること、食事は自分で作っていることを、かみくだいて説明する。子供は小学1年生だという。どの話も珍しいらしく興味深く聞いてくれた。ただ、おじさん、おじさんと呼び続けられたのは気になったが(笑)。

 その後、駅の待合い室で同級生と合流し酒場へ向かった。

駅で同級生と合流する

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